●[メディア提供記事/インタビュー再録]
常陽リビング(地域情報誌)
"好き"が仕事の原動力

[20歳でギャグ漫画デビュー 宇留野拓也さん]  2003.07.18
つくば市に「宇留野クリエイティブ事務所」を構える宇留野拓也さん(38)は、中学時代に漫画家を志し、20歳で『少年ジャンプ』デビューを達成した漫画家。現在はデザイナーに転向して企業漫画やホームページ制作を手がけているが、紆余曲折の中で一貫して好きな道を脇目もふらず歩き続け、そこで得たものは「自分にしかできない仕事」。そんな宇留野さんの生き方を探った。
「いつだったか『大成する人は自分が進む道に疑問すら感じない』というある漫画家の言葉を聞いて、ものすごく納得したんです。僕が大成するかどうかは別として、漫画家になるということに疑問を感じたことはこれまで一度も無い。なれないかもしれないと思ったことが無いんですよ」

面白いことをして周りを楽しませることが大好きだった少年は、小学校時代から自作のギャグ漫画で友達を笑わせることが常だった。土浦日大高校に進学するとすぐに地域の漫画好きを集めたサークルを主宰し、短編のアニメを制作するなどその活動の幅を広げたのもすべては漫画家になるためだった。卒業後は東京デザイナー学院に入学し、念願の一人暮らしをスタート。同時に多くの漫画家を輩出してきた漫画同好会に入ったが、全国から集まった漫画家志望者のレベルの高さにがく然としたという。

「間違いなく僕の絵が一番下手でした。地元ではあんなに上手かったのに、なんて思いながらも不思議と落ち込んだりはしなかったですね。結局その同好会員約100人の中で、デビューできたのは僕を含めて2人だけ。わからないもんですよ」


「こんな時代だからこそ、大人も子供も夢を持って生きたいですよね」と宇留野さん

東京に住み始めたことで漫画漬けの生活にさらに拍車がかかり、出版社への持ち込みも始めた。大手出版社には月2000人以上の売り込みがあり、デビューできるのはその中の1人、連載となると年間に1人いればよいと言われる厳しい世界。宇留野さんが大手出版社への持ち込みを続けて約1年後、20作目で『少年ジャンプ』(集英社)新人賞に輝き、31ページのギャグ漫画でデビューを飾った。
「タイトルは忘れましたけど、下宿人が数日家を空けてる間に食べ物が腐り、それがあまりにひどい腐り方をした揚げ句知恵を持って襲ってくる…というストーリー。食べ物を腐らせた実体験から生まれた話です。このデビューをきっかけに、どうにか『漫画家』として食いつないでいくことになったのですが―」。

出版社に紹介してもらった下宿は「鍵は閉まらず光も入らず、今にも朽ちそうなおんぼろ小屋」。単発の漫画は1ページに1日かけてもページ単価は8000円ほど。連載でも約1万円というギャラでは生活できず、挿し絵や先輩のアシスタントなどで日銭を稼ぐ日々が続いた。時には1個のキャベツを5人で分けて空腹をしのいだり、パンの耳だけで1週間過ごしたりと「絵に描いたような極貧」も経験する。「100人いれば99人は消えていく世界ですが、それでも楽しかったですよ。今の世の中で飢え死にすることはないって言い聞かせて。人の多い場所で倒れれば救急車を呼んでもらえるだろうか、なんて考えるのも自分のギャグ漫画のネタになったりしてね。それに、こういう仲間はたくさんいたし、それが苦にならないほど楽しかったですから」

目がさめれば漫画を描き、疲れればそのまま横になる生活。ストーリーを考えることが楽しく、原作者への転向も考えたが「どうしても自分の絵をイメージしての話だし、原作者として載る名前は小さくて寂しい」と思い作品を描き続けた。 

しかし3年後、連載していた『少年KING』(少年画報社)が休刊したのを機にデザイナーとして「広告漫画業界」へ転向。大手広告代理店に入社し、与えられたテーマの中での漫画の可能性を追求し始めた。その後、ホームページなどのデジタル作品を手がけるなど時流をとらえた精力的な活動を展開し、長女誕生を機に古里で子育てしようと97年に茨城にUターン。県内市町村のホームページや市町村キャラクターの制作、企業パンフレットなど3年間で130社以上のホームページを1人で作った時期もあったほど多忙を極めた。さらに、2002年7月には「宇留野クリエイティブ事務所」を設立して独立。以来、デザイナーとして活躍を続けている。

「好きなことを続けていれば必ずその道に進めます。だれにでもそんな道があるはず。それが見つからなければ止まっていればいい。数年止まっていたって長い人生の致命傷にはならないですよ。僕も親には相当心労をかけて申し訳ないと思っていますが、好きなことを仕事にできた今はとても幸せです」


手がけた作品の一部。かわいらしいものから劇画風まで幅広い

毎日が充実していると言う宇留野さん。“好き”に出合えた幸運は「人と違うことを怖がらず楽しめたこと」にあると話し、これからも努力はいとわないと笑顔で言い切る。