●[インターネットのココロ]
あきらめなければ、奇跡は本当に起こる。マンガの決めゼリフみたいですが、これは真実です。私はそれを目の当たりにしました。
46.世界チャンプを支えたアナザーヒーロー
去る七月十八日、後楽園ホールで行われたボクシング世界フライ級タイトルマッチで、挑戦者・内藤大助選手がタイの強豪ポンサクレック選手を破り、世界チャンピオンになりました。
この日、私はスタッフ証を胸に、会場のテレビカメラの脇にいました。実は、このタイトルマッチのパンフレットも、ポスターも、スタッフ証も、私たちが無償で作成したものだったのです。私の仕事のパートナーである「株式会社アームズ・エディション」社長の菅谷氏は、学生時代に内藤選手が所属する宮田ボクシングジムの練習生だったことがあり、それ以来、ずっと同ジムを支援し続けていたのです。私も、5年ほど前から宮田ジムの興行試合には毎回招待していただいており、やはり無償でポスター、パンフレット、リングマットなどのデザインや制作を担当してきました。そうやって支えてきた選手が、ついに世界一になったのです。私たちの感動は、とても言葉では言い表せないものがありました。
私たちは当日は関係者としてホールにいたため、試合前の控室にも入ったのですが、内藤選手は「やりたくねぇなぁ、時間が止まらねぇかなぁ」と、つぶやいていました。スポーツ新聞やニュースなどでご存知の方も多いかもしれませんが、対戦相手のポンサクレック選手と内藤選手は、三度目の対戦です。最初は5年前、2002年の十二月、敵地タイに乗り込んでの最初の世界タイトルマッチでした。が、開始後わずか三十四秒でKO負けを喫してしまいます。これはタイトルマッチ史上最短KO負けという屈辱の記録で、帰国した内藤選手は「日本の恥」とまで罵倒されました。アームズ菅谷氏は、このときも遠征に同行しており、自分の事のように悔しそうでした。
そして、内藤の執念の挑戦が始まります。このままでは、終われない。その思いは、ジム関係者や菅谷氏も同じだったようで、内藤の夢は、みんなの夢になりました。私を試合に招待してくれるようになったのは、その頃からです。私はボクシング観戦は初めてだったのですが、内藤選手の試合ぶりは胸がすくような痛快なもので、すっかり魅了されてしまいました。04年には日本チャンピオンに返り咲き、初防衛戦では「国内最短KO」で勝利。最短負けと最短勝ちの両方の記録を持つ内藤選手は、以来「最短男」の異名で呼ばれるようになります。
そして、05年、2度目の世界挑戦。ボクシングにはWBAとWBCの2つの世界タイトルがあるのですが、内藤はかつての屈辱を晴らすためにも、WBC=ポンサクレックにこだわりました。ポンサクレック選手は、並み居る強豪を退け続け、怪物のような巨大な壁となっていたのですが、それでも内藤はポンサクレックに挑みます。この日も私はスタッフとしてテレビカメラの隣りにいました。リングマットに印刷される「ダイナマイトグローブ」のロゴマークは、私が制作したものだったのです。リングマットには、その他スポンサー名が入っていましたが、その中には「アームズ・エディション」のロゴマークもあり、まさに関係者が力を合わせて作った夢の舞台でした。が、このときも、試合中の負傷によって7ラウンド判定負けとなってしまいます。

世界タイトルマッチとなると、少なくとも数千万円もの大金がかかります。コネも資金もない、下町の無名の弱小ジムが2度も世界に挑めたこと自体、奇跡のようなものです。「あしたのジョー」の丹下ジムが白木のお嬢さんの支援なしでやっていくようなモンですから。
私は「3度目は無理かも…」と思っていましたが、内藤も宮田ジムも、諦めませんでした。今回の3度目の挑戦では開催資金が用意できず、5月にスポンサー募集の記者会見を開いています。そうやって、ほんの少しづつ、内藤の意気を感じた人々の寄付を集め、私たちも無償で手伝い、今回の勝利をもぎ取ったのです。
むろん、頑張ったのも勝ったのも内藤選手です。彼は妻子がいるにも関わらず、月収わずか十二万円という極貧生活に耐え、次戦を信じて練習を続けていたのですから。
が、選手の影にアナザーヒーローたちがいたのも事実です。選手を信じ、支え抜いた人々がいたからこそ、世界王者という大きなモノに届いた。私はパンフレット類を作った程度ですが、アームズ菅谷氏は、海外遠征に同行したり、対戦相手を成田から都内ホテルへ送り迎えするなど、本当に宮田ジムのマネージャ的立場で手伝っていました。すべて無給。これは、ボランティアなどという考えで務まる範囲ではありません。本気で信じる。諦めない。
私が本当にスゴイと思うのは、この「諦めない力」です。選手も、関係者も、決して諦めない。夢は誰もが持っていると思いますが、生活、年齢、能力の限界など、様々な「現実」が足を引っ張るものです。しかも大抵の場合、夢を断念して現実と妥協したほうが楽になれて生活もよくなるものです。そういう現実に挑んだ選手と関係者の皆さんに、私は、もう一度拍手を送りたい。勝ったことではなく、挑んだ勇気に。


■追記
07年8月4日、宮田ジムにお邪魔して、このコラムと同じテーマでアームズ菅谷氏にインタビューさせていただきました。インタビュー記事は8月25日発行の求人情報誌「CUTE」の巻頭特集に掲載されたほか、アームズ・エディションのニュースレターその他で配布させていただきました。取材にご協力くださった宮田ジムの方々とアームズ菅谷氏に感謝いたします。