●[インターネットのココロ〜ボクラのクウキ編]
先日、文庫化された筒井康隆のコラム集「笑犬楼の逆襲」を読んだ。ボクは昔から筒井氏のファンで、中学・高校時代には、彼の作品を読みあさったものだ。
49.世間のクウキ
さて、このコラム集の中で筒井氏は経済再生について触れていて「まず金持ちがドンドンお金を使うような世の中にしなければダメだ」と論じている。金持ちがお金を使えば、それが回って庶民も豊かになる、というわけで、まぁ正論ではある。

しかし、同書で筒井氏は「毎日二十万円の税金を払っている」「収入の六割が税金になってしまう」と嘆いたり、原宿に住んで近所のカフェでゆったりしたり、有名店に出入りしたりといった暮らしぶりを披露しているのだ。つまり、それだけのお金持ちだということ。
そのお金持ち自身が「自分たちが旨いモノを食い、いい服を着て、豪奢な家に住み、高級車を乗り回せば、庶民はそこそこのモノを食って、安売りの服を着て、何とか家賃が払えて、中古車なら所有できる」と発言するのはいかがなものだろうか。庶民のボクとしては、正論ながらも受け入れたくない気分になる。

考えてみると、テレビや雑誌などで見識を述べる人の多くは、それなりの成功者で大抵「高額所得者」。カネに対する感覚も違う。全然我慢しないで済む人々が「自分だけは棚に上げて」言うことには抵抗がある。そもそも、お金持ちっていうのは、そんなにお金を使わない人が多い。少なくとも、ボクが出会ってきた「ちょっとお金持ちな人」はそうだ。お金に厳しいからお金持ちになるのであって、お金持ちがもっと豊かになる社会になればなるほど、社会に出回るお金は減っていくのではないだろうか。芸能人など、一部の豪快な人々の理屈をそのまま一般論に当てはめるのは妙な気がする。

かつて小泉元首相が唱えた「傷みを伴う改革」も、本人にとっては「高級料亭が普通の料亭になる」程度の傷みだったはず。小泉元首相も生まれながらのサラブレッド。明日の食卓を案じるような経験はないだろう。悪気はないとしても庶民の現実を知らずして語られる正論が、時に死刑宣告に等しい。高所得者と低所得者では耐えられる痛みの程度が違うのだ。高所得者にとっての「ちょっと痛いなぁ」は、低所得者には致命傷。そういったことに気づいてないのか、気づかないフリをしているのか。

江戸中期の名君として名高い「上杉鷹山(うえすぎようざん)」をご存知だろうか。小泉前首相も尊敬する人物として引きあいに出していた殿様だ。彼は「まず自分がしてみせて」次に「言って聞かせ」その後に「させてみる」という段階を踏んでいる。彼は大藩・上杉家の藩主でありながら自らの家計も庶民並に落とし、食事は一汁一菜、服も木綿に変えて、年30万石だった経費を10分の1以下の2万石にまで削減し、改革に成功した後も終生貫いたという。すでに苦しんでいる庶民ではなく、自分が「傷みを伴う改革」をやったからこそ、上杉鷹山は現代にまで伝わる名君なのだ。

個々人の事情ばかりを優先していては世の中はちっとも良くならない。ある程度は我慢しなくてはならないのは分かる。そこで出てくる正論。庶民のほうも、マスコミに躍らされて、それを鵜呑みにして歓迎したりしている。でも、庶民の本音は「ニッポンの経済じゃなくて我が家の家計」にある。我が家の家計がニッポンの経済の上にあるからニッポンの経済が気になるのだ。
百歩譲って、金持ちが旨いものを食って、庶民はそこそこを受け入れたとしても、カネが回ってくるまで何年もかかる。年収300万時代と言われ、明日の食卓が心配な庶民も少なくない。一朝一夕に豊かになるわけではないから改革はしなければならないけど、政治家さんや知識人の方々が見識を述べるときには、もうちょっと世間のクウキを読んだ対策と発言をしてほしいと感じるのだ。