●[インターネットのココロ〜ボクラのクウキ編]
身体をどれくらい洗うか。どの程度のファッションで良しとするか。テストで何点取ればいいか。誰でも、毎日「自分なりのゴール」を決めて暮らしているものだ。

51.ゴールのクウキ

もちろん個人的なことはそれでいいし、それがアタリマエだが、仕事など、他人と関わることについては、自分だけでゴールを決めてもダメ。例えば、ボクらのような広告制作者は「お客さんが定めた出来栄えと内容=ゴール」に届かなければ、どんなに頑張っても得点にならない。そのゴールが明確に示されることは滅多になく、でも、ゴールラインは確かにあって、そこに届くことが引き受ける上での絶対条件になる。
お使いを頼まれたけど、体力がないから途中の関係ない人に届けりゃいいや、なんてことは許されないからね。
つまり「見えないゴールのクウキ」を読んで、そこを目指すってコトなのだ。

今月は、地元の大学でマンガの一日講師をした。実習も含む講議だったので、課題として「広告用のマンガを実際に作ってみる」ことにした。途中で一人ひとりアドバイスをしてあげると、学生たちは目を輝かせて取り組んでくれた。それは、とても素晴らしい時間だったのだが、上手い・下手に関わらず、みんな、自分のゴールに向かっちゃうんだよね。そして、そのゴールがとても低いところに設定されちゃっている。本当は、もっと走れるはずなのに、ダラダラやっても必ず届くところをゴールにしちゃっている。今回は一日だけの講議だったから、心構えまで語る時間がなかったため、この問題を指摘せずに講議を終えたのだが、いつか必ず伝えてあげなきゃと、心が残った。
ボクは、この実習の前に、自分の描いてきた作品を多数紹介して、どのくらいのモノを作るべきなのかを示した。これがゴールだよ、ここに向かってね、と。一番大事なことは、課題を出すことじゃなくて、そこを目指すことなんだ。
「そんなこと言われても、画力のない人に上手な絵を描くなんてムリだよ、ワタシにはコレが完成品なの」といった反論が聞こえてきそうだが、そんなことはない。最初から無理に決まってると思い込んでいるから、ゴールに届く方法を考えることができないだけのことだ。
学生たちは、みんな同じ道具、同じ机、同じ材料で何かをするものと思い込んでいる。でも、それはカンチガイなのである。上手い奴は、ペンと紙だけあれば思い通りに描けるだろう。でも、そうじゃない人は、他の道具や資料を使えばいいのだ。資料がなければ、資料から作ればいいのだ。複雑なポーズなんか描けない、デッサンも苦手としても、友だちにポーズを取ってもらい、ケータイで撮影し、それをプリントして、上から丁寧になぞれば、何も材料がないときよりは、ずっといい絵が描ける。身近にある道具で工夫するだけで、ずっとゴールに近付くことができるのに。あと少し、講議の時間があれば、それに気付かせてあげられた。やはり、心が残る。
道はいくつもあるのだ。定められているのはゴールだけで、そこまでの道のりは自由なんだから。直進できないなら回り道をすればいいだけのこと。回り道が必ずしも遅いとは限らない。混んでいる大通りより裏道のほうが早いなんてことは珍しくないのだから。
新人社員に限らず、求められている「ゴールのクウキ」を読めずに、自分だけのゴールに向かってしまう人は少なくない。それは工夫して、なにかに届いたという経験をしていないからだ。失敗するのも恐いから、確実に届く低い目標に向かってしまう。考える前に妥協してしまう。その気持ちは分かるけれど、せめて学生という練習期間には、チャレンジ精神を持ってほしい。