個人情報や固有名詞はできるだけ伏せていますが、やりとりしたメール文面などは原文のママです。


■番外編:ボクが体験した善意の力
ボクが描こうと思ったイバライガーの防犯コミックは「善意の力」がテーマになっている。
そういうことを正面切って言うと、偽善だとか、ええかっこしいだとか、言われちゃうことがあるんだけど、ボクは過去に3度「小さな善意の力」に救われている。
自分の「いい話」を吹聴するのって気恥ずかしいとは思うんだけど、これもボクがイバライガーに関わっている理由の1つだから、書いておこうと思う。
内容が内容だから冷静に書けないかもしれない。混乱してたらゴメンね。



最初は娘が1歳のときだ。
クリスマス間近のある日。なんの予兆もなく、娘が激しい痙攣に襲われて倒れた。引きつっていて、呼吸も満足に出来ない。
慌てて近くの病院に駆け込み、すぐに近郊の大病院を紹介され、即入院となった。
だが、症状は収まらない。痙攣は、ほぼ1時間おきに何度も襲ってくる。そして1分ほどで止まる。発作が止まると娘はぐったりして意識を失う。1歳の赤ん坊だから、体力を一気に消耗してしまうのだ。そして1時間ほどして、ようやく息が整った頃、また襲ってくるのだ。
ボクらは成す術もなく、それを見続ける。

痙攣中は呼吸が出来ない。今は1分で止まっているが、いつ止まらなくなるか分からない。もしも長い時間呼吸が止まったら脳に重大な障害が出る危険もあるし、それ以上なら・・・・。
恐ろしかった。担当医に何度も食ってかかった。治せとは言わない。せめて痙攣を止めてくれ、と。だが、担当医は原因すら分からなかった。点滴をつけて寝かしておくだけだ。あまりにも危険な状態だから一瞬も目を離せない。家族は交代で寝ずの番を続けていたが、体力的にもいつか限界が来る。もし、うっかり寝てしまったら。そのときに、止まらない痙攣が起こったら。
そういう状態が、2ヶ月続いた。

治療法が分からない?そんなことがあるのか?我が子が、そんな病気になんの前触れもなく罹るなんてことがあるのか?ついこないだまで、あんなに元気に笑っていたじゃないか。クリスマスの支度をしていたんだから。ボクには信じられなかった。だが素人がいくら調べても、はっきりしたことが分かるはずもない。

メールを書いた。全国の病院という病院のホームページを片っ端からチェックし、その全部にメールを書いた。
「どうか娘を助けてください。」

当てにしていたわけではなくて、でも出来る事は他になかったんだ。
娘が助かるならどんなことでもするから、どうか助けてほしい。
藁にすがるとは、まさにあのことだ。

そのメールに返事が来た。
それも、ほとんどの医師から。返信は200通を超えた。
ボクが書き添えた症状に基づいて、様々な治療法や検査方法が書いてあった。
そして、多くの医師が指摘している検査を娘が受けていないことが分かった。

すぐに担当医に問いただした。担当医はようやく認めた。その検査が必要なことが分かっていながら、院内にその設備がないから放置していたことを。治療より病院の面子を優先していたのだった。
ボクは、このことを公表されたくなければ、今すぐ適切な設備のある病院を紹介し、転院させろと迫った。
その夜、娘は近郊の大学病院に転院した。専門医がいてくれて、彼は娘の姿を見て笑った。家族を安心させようとしたのだろうけど、ボクは逆上し襟首をつかんで怒鳴ってしまった。「1歳の子供が苦しんでんだよ!笑ってんじゃねぇ!!」

だけど、その翌日には対処法も分かり、あれほど止まらなかった痙攣が、ピタっと止まった。
医師はまた笑っていたけど、今度は襟首は掴まなかった。すぐに、できるだけ高いウイスキーを買いに行ったよ。

まぁ、これで完治した、というわけじゃないんだけどね。娘の病気は、年齢とともに治まっていくというものだったので、毎日薬を飲み続けて発作を抑え込みつつ、時が経つのを待つことになった。完治したのは、娘が中学生になった12年後のことだ。

でも、もしあのとき、全国の医師が返信してくれなかったら。
娘はずっと意識不明のままで、いつか止まらない痙攣がやってきたのではないだろうか。ボクらは、あの笑顔を二度と見る事もできなかったかもしれない。
そのとき、ボクらは生き続ける気力を保てなかったかもしれない。

ボクに返信してくれた医師たちは、専門医ならごく当たり前の知識を書いてくれただけだ。でも、顔もしらない奴から届いた、もしかしたらインチキかも知れないメールに応じてくださった。それも、ほとんどの医師がそうだった。無視されても仕方なかったのに、みんな真摯に対応してくださった。
娘が生きているのも、ボクらが生きているのも、全国からの小さな善意のおかげだ。
善意の力が本当にあることを、ボクたち家族は噛み締めて生きている。

病気を抑えるために、娘は毎日薬を飲み続けていた。体内にいつも一定量の薬があることが生きる条件だった。もっとも薬さえ切らさないように気をつけていれば発作もなく、日常生活は普通の子と変わらない。ただし、小学校卒業まではプールに入る事ができなかった。プールでもしものことが起こったら、助けられないからだ。
小学校の授業参観で娘が作文を読んだ。「みんなと一緒にプールに入りたいです」と言ったときに、ボクと妻は泣いてしまった。その日はきっと来るから、と。完治した後に「スパリゾート・ハワイアン」に行って、泳ぎを教えたよ。
また、いくら薬があるからと安心は出来なかったから、娘が寝ているときは、ビデオモニタで常時監視し、ホンのちょっとの音でも気づけるように音量を最大にしていた。ビデオの必要がなくなった今でも、小さな寝息が聞こえたりすると、ボクは隣室にいても気付く。そして覗きにいき「ああ、生きてる」とホッとする。
ホッとできるのも、ボクが襟首を掴んでしまった先生と、全国の医師の善意のおかげだ。

ボクは、あの当時も今も、ホームページを作る仕事をしている。
あのときインターネットがなければ、医師たちのホームページがなければ、娘を救えなかった。インターネットには命さえ救う力があり、それにボクは関わっている。
だからあれ以来、ホームページだけでなく、どんな依頼でも「代金がいくらだからここまで」といった仕事はできなくなった。元々そういう傾向は強かった(作った作品の実績で食ってるわけだからね)のだけど、なおさらそうなった。
ホームページでも、パンフレットでも、マンガでも、良質な情報が増えれば増えるほど、どこかの誰かを救えるのかもしれない。自分がそうだったように。ならば、この仕事は恩返しだ。予算をオーバーしようが、やるべきことはやらなくちゃ。そりゃ仕事なんだから、予算が必要ならそう言うよ。でも、ボクがやるべきと思ったレベルまで依頼者が考えていなければ、追加予算は出ないし、望んでいたとしても余力がないこともある。だからそういうとき、ボクは「ボクの仕事」として突っ走るようになった。
そのまま15年、そうやって仕事してきた。余計な事までやるから採算が悪いように思えるけど、これが逆。感謝してくれて信頼が高まり、取引が継続したり広まったりする。
恩返しどころか、結果的には個人業としての成功につながってしまった。
たぶんボクは、この恩返しは死ぬまでやめないな。そもそもクリエイターとして、作りたいものを作れるってのは、すっごくウレシくってキモチいいもん。






2つめは、10年ほど前のことだ。

ボクはそれまでにやってきた全てを失ったことがある。正しくは失ったと思い込んだ事がある。一緒にやっていたパートナー社長のささいな使い込みによって、目の前にあった大きなチャンスが消えてしまった。それを知って社長を怒鳴りつけたら、その場で解雇された。そして可能性も、夢も、打ち込んだ労力も、投じた資金も、全てが消えた。

家族を養う術もなく、自殺を考えた。
すぐに収入を得る当てもなかったから、死んで保険金を得たほうがマシだと思ったんだ。今にして思えば、バカでしかないんだけど、そのときはそれしかないと思った。娘の治療費だって必要なんだから。ボクが死ぬくらい、どうでもいいことだと思った。
でも妻は、それなら自分が死ぬ、と言った。あなたが再起するまでの時間さえあればいいんだから、と。どうしようもなく堕ちたボクに、それでも可能性があると妻は思っていた。
でもボクは、もう自分を信じる気持ちがなくなっていたんだ。

そんなボクを立ち直らせてくれたのが、最初のコラムで書いた一緒にイベントをやっていた仲間たちだった。彼等は、小さなお店を経営してたりする、ごく普通の人々だ。不景気に喘ぎながらコツコツと働いている、当たり前の人々。

その年、ボクはいつものイベントに参加しなかった。「荒川沖〜柏」間の、わずか580円の電車賃でさえも生活費の足しにせざるを得なかったんだ。そんな恥ずかしいことは言えないでしょ。だから、黙ってすっぽかした。ひっそりとしていた。
そして夏が過ぎ、打ち上げパーティの誘いが来た。
ボクはイベントをすっぽかした後味の悪さもあって、誘いを断れなかった。それで家族に申し訳ないと思いながらもパーティに出かけた。仕事も将来性も失ったボクの代わりに、パートで一日中働いている妻から小遣いをもらって。
みじめだった。行きたくなかった。
パーティでの会費は、他のみんなと同じように支払った。居心地の悪いパーティだった。仲間と一緒にいるのに全然楽しくない。

でも、帰る時に、代表の一人がこっそりと封筒を押し付けてきた。そこには数万円が入っていた。仲間たちは全て見抜いていたんだ。泣けてきた。さらに後日、仲間たちは、ホンのちょっとした名刺や封筒のデザインとか、小さな仕事を持ち寄って発注してくれるようになった。1万円になるかならないか、その程度の仕事で、それまで動かしていた仕事とは何桁も違う。もう、やる気はなかったんだけど、目先のお金のために引き受けた。
やるとなれば、やはりデザインの仕事は楽しい。少しづつ気力が戻ってきた。
そして、そんな注文が集まって、あっという間に100万円になった。
信じられないことだった。

また、別の社長はボクのために事務所を丸ごと用意してくれた。家賃も、電気代も、ネットなどの通信費もタダで、しかも無期限で。また別の社長が、ボクのためにサーバとドメインを提供してくれた。今もボクの事務所サイトとして使っている「URUTAKU.COM」だ。今は自分で維持しているけれど、このドメインはボクに立ち直れ、と言って贈られたものなんだ(きっとボクは一生、このドメンインを使うだろう)。

さらに同業の先輩が励ましに来てくれた。ボクを心配した妻が呼んだのだ。
「誰かと組むんじゃなくて、自分でやってみなさい。あなたは自分の本当の力を出し切っていない。」
そう言われた。

数カ月、ボクは立ち止まっていたけれど、もう一度、やってみようと思うようになった。そして失ったと思っていた全ての相手に、連絡した。またボクはやります、と。ボクはひとりだけど、それでもボクにできることがあるなら、使ってみてほしい、と。
すると次々と注文が来た。まるで待っていてくれたみたいに。いや、待っていてくれたのだ。彼等は同じ事を口にした。
「前の会社を辞めたからって、何も関係ない。会社に頼んでいたわけではなく、あなたに頼んでいたのだから。」

結局、ボクが勝手に思い込んでいただけで、大事なモノは何も失っていなかったんだ。ボクがどん底でおしまいだと思った場所は、底の浅い場所でしかなかったんだ。大勢の人が、それを教えてくれた。

このときからボクは大きな仕事を追い掛けたりしなくなった。そして、かっこつけることもなくなった。他人に迎合したりもしなくなった。ボクがボクだからこそ意味があるというのが分かった。ボクが描くモノ、考えるモノは、ボクから奪えない。失うことなんかあり得ない。時をかけて積み上げたモノは、なくなったりしない。いや、なくなるモノは取り返せるモノなんだ。それが分かった。

10年が過ぎた今でも、当時受けたダメージの全てが解消されたわけじゃない。コツコツ仕事しながら、少しづつ前に進んでいくだけだ。でも毎年、ちょっとづつ良くなっていってる。妻はパートは1年で辞め、今はボクを支えてWEB制作をしてくれている。数年前からはアシスタントもいる。誰かにお金を払えるようになるなんて、考えてもいなかった。

なお、ボクは2006年にも、これと似たような体験をしている。そのときも仕事のパートナーから、三くだり半を突き付けられた。そのパートナー会社には従業員が4人いて、ボクはその社内に自分のオフィスを間借りしていて、ついでにその会社の「雇われ社長(代表権はない)」も兼任していた。だが会社はボク(妻も一緒だったから正しくはボクら)に依存しちゃって、売上の8割をボクらだけで作っている状態だった。従業員たちはそれに甘えてちっとも仕事を覚えなかったから、ある時「今後は分配しないぞ」って言ったら「じゃあ出てってよ」って言われちゃったんだよね。
でも今度は全然コワくなくてね。あ、そ〜ですかって、すぐに今の事務所を立ち上げた。で、予想通り、おつき合いしていたほとんどのお客は、そのままボクと取引を続けてくれた。残った連中は「仕事を返せ」って怒鳴り込んできたから「取ってないよ、お客がボクを選んだだけだもん」と。お客もそう言ってくれて、連中はぐぅの音も出なかった。

ボクは何があっても何も失わない。誰の下にもつかないし、上にも立たない。
そういう覚悟を決めてしまうと、すごく楽にもなれた。
それを与えてくれたのは、小さな善意の集まりだったんだ。




長くなったけど、ついでだ。もう1つ、3つめの話もしてしまおう。
それはボクが苦しんでいたときに「誰かと組むんじゃなくて、自分でやってみなさい」と言ってくれた、あの先輩のことだ。

彼女(女性なんですよ)は、ボクより20歳近くも年上で、すでに高齢者と言っていい年齢だ。かつてはテレビ局や雑誌社などに勤務し、手塚治虫の担当をしていたこともあるらしいが、その後離婚し、幼い二人の娘を育てるために時間を取れる環境を求め、土浦で暮らすようになった。
彼女は、二人の娘を育て、さらに年老いた母親の世話もしながら、仕事を続けた。収入は少なかったようだが、そういう状況でありながら、一度たりとも授業参観を欠席したことはなかったという。また、学校にありがちな「ヘンな校則」で子供が理不尽を感じると、娘とともに学校に立ち向かったりもした。

ボクが彼女と出会ったのは、娘さんたちが成人し、自立し、彼女が自分のために働けるようになった頃だ。
(娘さんの一人はニューヨークでニュースキャスターをしていて、911テロの際には、すぐそばにいた。もう一人は大手企業の企画部に勤めている)

彼女は優れたコピーライターでプランナーだった。なにより仕事を楽しんでいて、社会情勢や将来の推移まで考えて、企業や地方自治体にどうあるべきかを説く。プランナーという枠には収まらない仕事ぶりで、ボクは衝撃を受けた。今のボクは彼女を見習って、漫画家やデザイナーの枠を超えて仕事に踏み込むようになっている。
彼女は信念があり、好奇心旺盛で、そのバイタリティは年上とは思えなかった。彼女に支えられて、ボクはいくつものホームページを企画制作した。土浦市、つくば市、下妻市などの市町村ホームページも、ボクと彼女のコンビで作ったものだ(一時は茨城県内の過半数の自治体ホームページがボクらの担当だった)。
子育てや教育のことでも、色々とアドバイスしてくれた。彼女は教師の免許も持っているのだ。

そして彼女とボクは、ほとんど同時に個人として活動するようになった。元々、お互いに個人志向が強い同士だったんだけど、示し合わせたわけじゃない。それから今日までボクは、自分が目指す仕事の在り方、社会との関わり方を追い掛け続けてきたけれど、その間に彼女は・・・。

彼女は最初は、近郊の企業の相談役のような仕事をしていて、ボクとも関わる事が多かったが、あるとき突如として孤児院に協力し始めた。彼女は言う。

「自分は社会制度のおかげで子供を育てることができた。子供は社会のものであり、自分は社会の一員だ。だから、今度は社会の一人として、他の子供を助ける番だ。」

そう言って、孤児院の子たちを集めたグループホームのお母さんになった。これは孤児たちに家庭の暮らしを与えてあげるために、孤児院ではなく一般の住宅で世話をするのだが、給料は安く、なり手は少ない。
なにより子供たちは荒んでいる。親に捨てられたという心の傷があるからで、大人に心を開かない。いや、子供同士でも協調性に欠ける傾向がある。自分は必要のない人間で、誰とも関わる必要はない、と感じているからだ。
彼女は、進んでそういう子を何人も預かり、お母さん役をやった。
学校に通わせるが、そのまま毎日脱走する。それを根気良く探し、決して怒らず、見守り続ける。その一方で食事も用意しなければならないし、小さい子をお風呂に入れなきゃならないし、宿題もみてやらなきゃならない。荒れた子が食卓をひっくり返したりもする。それでも怒らずに諭していく。世話をするだけではなく、家庭を作らなければならないのだ。
あなたたちは必要のない人間なんかじゃない、と、感じさせなければならない。
そして何よりもきついとボクが思ったのは、そこまでして育てながら、決して本当のお母さんと錯覚させてはならない、という部分だ。
近い将来の別れが前提であり、本気の愛情(真似事では子供の心は開かない)を注ぎつつも、その愛する対象と、常に一定の距離を取らなきゃならない。
なんて辛いことなんだ。ボクには、たぶん耐えられない。

彼女が過酷なチャレンジをしていることは知っていたから、ボクはとても心配していた。だが、グループホームの場所は分からないし、彼女も教えてはくれない。

彼女は2年間、グループホームを担当した。さすがに60歳をいくつも超えた女性に、いつまでもやらせておくわけにはいかなかったようだ。だが、彼女がやめる頃には、子供たちは協力しあって暮らせるようになっていて、もう脱走する子も、テーブルをひっくり返す子もいなかった。
社会や学校とも積極的に関れるようになっていたという。

ボクはホッとしたが、その後しばらく連絡がなかった。あとで知ったが、ガンに罹っていたという。
もう休んでくれ、あなたは、もう休んで、好きな本を読んで暮らしていいんだから。

けど、彼女はそんなことで止まらない。
ガンを克服し、今度は学習塾で子供たちを教え始めた。お金に困っているわけじゃない。年金で暮らしていけるはずだ。
だけど、彼女は「社会への恩返し」をやめない。本人は好きでやってるだけだから、と軽く笑う。授業時間をオーバーしても、分からないところがあると、とことんつきあう。小さい子でも、受験生でも同じように接し、休日は教えるための勉強を続けていた。
ちなみに、ボクの娘は彼女に数年間も教えてもらって高校に合格した。今でも会うと、娘のことを懐かしそうに語ってくれる。娘に聞くと、ボクのことをいつも心配してくれていたんだそうだ。ありがたすぎて涙も出せない。

彼女はボクがピンチのときに言った。
「誰かと組むんじゃなくて、自分でやってみなさい。あなたは自分の本当の力を出し切っていない。私は広告のプランナーで、プランナーの仕事は、企業の魅力を見抜くことだ。その私の目から見て、あなたは自分の力を分かっていない。本当はもっと自分でやれるのに、どこかで誰かを頼ってしまうから、こういうことになるのよ。今度こそ、自分でやってみなさい。私なんか一人でずっとやってきたのよ?それに比べたら、あんたはまだ何もしてないわよ」
彼女にそう言われちゃ言い返せない。それでボクはやってみることにしたんだ。
たった一度の言葉。それでボクは歩き出せた。小さな力って、大きいよな。

彼女は「善意の力」を見せつけてくれた。
何万人も救ったわけじゃないけれど、とても尊いことを示したとボクは思う。それに、もしかしたら、これからも何かやるかもしれない。彼女は、娘の中学卒業を見届けて塾は辞めたんだけど、70歳近く(あれ、超えたかも)になった今も元気で、ときどき訪ねていくと、今日は○○に出かけるよ、明日は○○があって、と、相変わらず色々なことにチャレンジし続けている。
本当に素晴らしい人だ!

ボクは40歳近くまで、実在の人間で尊敬している人っていうのがいなかった(架空でなら、ヤン・ウェンリーは尊敬している。作者じゃなくてヤンをね)。好きな人とか認めている人はいくらでもいたんだけど、尊敬っていうのとは違っていた。

でも、今は尊敬すべき人が大勢いる。どの人も歴史上の有名人なんかじゃないんだけど、あれこそボクが目指すべき人たちだ。

ボクは、こうした「善意の力」を何度も見て、実際に体験してきた。
そして、こういうことって、体験すればするほど、もっと欲しがるようになっちゃうんだよ。
あの気持ち良さ、うれしさ、感動。何度でも味わいたい!!

だからイバライガーなんだ。
イバライガーもその1つになるんじゃないかと期待しているわけ。

ホンのちょっとのコトで、人は救われる。イバライガーのおかげで救われた人も、きっといる。そして、ボクの仲間たちのように、ボクもイバライガーを少しだけ救ってあげられるはずだ。ボクが今生きていて、家族に笑顔があるのも大勢の人々のおかげなんだから、ボクも彼等に続きたい。
無名のボクでさえ、これだけの善意が集まった。まして、みんなのヒーローのイバライガーに、善意が集まらないはずがない。
そこには、きっとまた、あの「気持ち良さ」があるはずなんだ。

ボクは気持ち良くなりたくてイバライガーに関わってるんだな。



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