病気を抑えるために、娘は毎日薬を飲み続けていた。体内にいつも一定量の薬があることが生きる条件だった。もっとも薬さえ切らさないように気をつけていれば発作もなく、日常生活は普通の子と変わらない。ただし、小学校卒業まではプールに入る事ができなかった。プールでもしものことが起こったら、助けられないからだ。
小学校の授業参観で娘が作文を読んだ。「みんなと一緒にプールに入りたいです」と言ったときに、ボクと妻は泣いてしまった。その日はきっと来るから、と。完治した後に「スパリゾート・ハワイアン」に行って、泳ぎを教えたよ。
また、いくら薬があるからと安心は出来なかったから、娘が寝ているときは、ビデオモニタで常時監視し、ホンのちょっとの音でも気づけるように音量を最大にしていた。ビデオの必要がなくなった今でも、小さな寝息が聞こえたりすると、ボクは隣室にいても気付く。そして覗きにいき「ああ、生きてる」とホッとする。
ホッとできるのも、ボクが襟首を掴んでしまった先生と、全国の医師の善意のおかげだ。
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